代表 中森正憲の生い立ちと家づくりへの想い


代表 中森正憲の生い立ちと家づくりへの想い


画像1
昭和49年4月8日
中森家の長男として名張市にて誕生。

私が生まれるまでは、
父、母、祖母、母の妹3人、
そして犬2匹と猫1匹もメスという、
まさに女性ばかりの家庭でした。

男が増えたと喜ばれたのもつかの間。

私の誕生を皮切りに、
生まれてきたのは男ばかりで私は男4人兄弟。

画像3
それだけでなく母の妹3人の子どもも全て男。 

いとこは男だけの総勢13名。

盆と正月に皆が集まると、
子どもの私たちは家中を走り回ったり、
チャンバラごっこしたりと、
とても楽しかった記憶があります。

ですが、親は大変だったでしょうね。

そんな男ばかりの環境で育ったせいか、
子どもの頃は女の子としゃべるのがとても苦手なシャイボーイ。
(今もですが!(笑))

 

幼少期には、
お菓子に入っていた乾燥剤を飲み込んでしまったり、

近所の犬に嚙まれたり、
弟が振り上げた鍬(クワ)が私の頭めがけて振り下ろされ、
何針も縫うなど、
死にかけたり怪我をすることも多かったことを憶えています。

生まれた時から犬がいたからか犬が大好き。



「正憲がいない!」


「どこ探してもいないぞ!」


家から私がいなくなったと家中大騒ぎ。



「見つかった~!」

犬小屋で犬と一緒に気持ちよさそうに寝ていたそうです(笑)

父は大工だったので、
物心がついた頃にはのこぎりや金槌を持ち出しては、
大工の真似事をよくしていました。

真似とはいうものの、
石をのこぎりで切ってみたり、
大切な化粧柱を切ったりと、
今から思うとぞっとすることばかり。

けれども父に怒られた記憶はありません。

父の寛大さを今となってしみじみと感じています。



築200年の実家の建て替え

私が4歳になる頃、 
実家を建て替えることになりました。

それまで住んでいた家は、
なんと江戸時代中期に建てられた、


画像8
築200年程の藁ぶき屋根の家。


何となく記憶にあるのが、




玄関からずっと奥まで続く土間

土間の左奥にあった釜くど

五右衛門風呂

木の板一枚が床のぼっとん便所

画像9
そんな歴史が刻まれた家が取り壊される時は、
子どもながらに少し寂しさも感じました。

そして昭和53年3月の雪が舞う寒い日。

木造在来の住宅に生まれ変わる上棟。

柱や梁がむき出しの骨組みが出来上がった時、
親戚の叔父さんに連れられて、
はしごを一段一段登り頂上の棟木まで。

画像10



「うわ~~~すご~~~い!!!」

そこから見下ろした景色は、
今でも鮮明にまぶたに焼き付いています。

大工の父は仕事人間で、
休日も関係なく働いていた印象があります。

服装も普段着を見たことがなく、
いつも作業着。

仕事を終えて家に帰って来ると、



体に染みついてほのかに漂ってくる木の匂い


そして、ビールを飲むときなどに見える


たくましい腕の筋肉


子ども心にそれらに憧れていたのを思い出します。



野球で汗を流した少年時代

私が小学生の頃、
名張市は関西方面からのベッドタウンとして急速に発展。

大規模な宅地開発があちこちで進められ、
近所でも岩盤を破壊するダイナマイトの爆発音が鳴り響いていました。

勉強の方は得意ではありませんでしたが、
そこそこは出来たと自負しています。
ただし小学生の頃限定ですが(笑)

私の住んでいた地域は市内でも田舎の方で、
学校自体も人数が少なかったこともあり、
地域の子ども会でソフトボールをしていたのですが、
当時は試合をしてもほぼ全敗。

そんな中でも唯一覚えている6年生のある試合。

最終回ツーアウト満塁。

4番バッターの私に打順が。

抑えられれば試合終了。



「カキーン!」

画像11

逆転サヨナラ満塁ホームラン!!!


その時の興奮と高揚感は今でもはっきりと覚えています。

それがきっかけとなったのか、
中学生になると野球部に入部。

3年間たくさん汗を流したのですが、
残念ながら地区で1回戦を勝てるかどうかの弱小チームでした。

そんな中学生生活を送る中、
中学2年生の夏休みの自由研究で、
父の仕事場について行って廃材をもらい、
縁台を見よう見まねで作りました。



その時の縁台は、
30年以上経った今でも実家の軒先に。

画像12

当時は廃材をもらったと思っていましたが、
こんな立派な廃材なんかありませんよね(笑)



パンクロックに夢中だった高校時代

高校は地元の普通科高校に進学。

万年弱小だったこともあり、
野球はやめてしまいました。

その頃はバンドブーム。

貯めていたお年玉を握りしめ、
大阪までエレキギターを買いに。

当時、音楽ではパンクが流行っていて、
大阪のアメリカ村辺りにはトゲトゲのモヒカンに、
スタッズ(鋲)だらけの革ジャンを着たお兄さんがいっぱい。

その光景が田舎者には衝撃的でした。


ギターを手に入れた私は、
勉強そっちのけで音楽に没頭。

画像13-1
いつも誰かの家に集まっては練習。

ちっちゃなライブハウスや、
公民館を借りて演奏するのが楽しみでした。

もちろん演奏していた音楽はパンクロックです(笑)

そんな高校生活もあっという間に卒業を迎え、
進路を決めなければならない時期に。



社会人デビュー




何かというと口癖のように母親が、



「うちにはお金がない!!」

と言っていた事にマインドコントロールされていたのか、
大学や専門学校への進学は、
選択肢から消されていました(笑)

なので、何の仕事をするのか、
どこに就職するのかを考えなければいけない。

高校に入学したころは、
バブルで就職先はいくらでもあると言われていました。

けれども卒業の頃にはバブルも崩壊し、
就職もなかなか見つからない状況。



自分が何をしたいのかなんて全く分からない・・・・・・

体を動かしたり、
技術的な事は得意でしたが、
休みもなく働きづめの父を見ていて、



後を継いで大工になろうなどとは全く思いませんでした。

結局は大規模な工場の作業員として就職することに。

そこから会社勤めが始まったものの、
仕事が休みの週末になると、
春夏秋はサーフィン、
冬はスノーボードと、
車中泊して海や雪山にばかり行っていました。

画像16

この頃は仕事より遊ぶことに夢中。

そして20歳の年には地元の仲間と一緒に野球も再開。

チームを結成し、
市民大会にも参加。

最初はなかなか勝てませんでしたが、
平日もナイターで試合を重ねるなどするうちに、
リーグでは敵なしになるほど強いチームになりました。

画像17


市民大会でも過去2回の優勝を誇ったそのチームは、
今尚、存続しています。

今では年に一度の市民大会だけしか野球をする事がなくなりましたが、
試合後にみんなで一緒にお酒を飲むのが楽しみです。



大工の道へ

社会人になり3年が過ぎた頃、
何がきっかけだったかは思い出せませんが、
仕事や人生に対して真剣に向き合うように。



この仕事に自分の力を注げているんだろうか?


自分には会社員として働くことが合っているんだろうか?


大きな会社組織の中では、
私は自分に都合よい考えしか持たない一労働者で、
エンドユーザーのことや、
会社のことなどは全く視野には入っていませんでした。

そんな気持ちだったので、
イキイキと仕事ができるはずもありません。

そんなことを考えるようになった時期と重なって、
ある事件が。

当時、父親は何人かの大工さんと共同で仕事をしていたのですが、
仕事上の些細なトラブルで仲間が去り、
仕事場には父が一人だけ残ることに。

ただ、大工一人だけでは、
全く仕事にならないという状況。



「あんたがお父さんと一緒にやってくれたら・・・・・・」

困り果てた母親に泣き落とされた形となり、
父親の背中を追って大工の道を進む覚悟を決めました。

心機一転、やる気も湧いていたのですが、
同世代がたくさんいた会社勤めとは違い、
周りには父親よりもさらに年上のおじさんばかり。

みんなが話す建築の専門用語がわからず、
雑談の会話も合うはずがなく、
馴染むまでにとても時間がかかり、
苦労をしました。

仕事についても、
父親は昔ながらの職人気質の人間で、



「見て習え!」

と言うタイプでしたので、
手取り足取り教えてくれることもなく、
ただただ見て覚えるしかありませんでした。

そんな状況でしたが、
会社員の頃とは変わり、
遊びよりも仕事中心の暮らしに。

とにかく技術を身に付ける事に執着し、
毎日必死に働きました。

技術が身に付いてくると仕事が楽しくなり、
気が付けば1ヵ月間休みをとっていないということも。



しかし、大工となってから半年後・・・・・・



誇りと生きがいを感じる


平成10年9月 台風8号上陸

画像18



その日は仕事が休みだったので、
私は大阪に遊びに行っていました。

大阪も台風の影響で風が強く吹き、
外を歩くことが危険だと感じるほどだったので、
地下道を歩いていた記憶があります。

そして帰ろうと思った時には、
電車が止まってしまい、
帰ることができなくなり友人の家で待機。

そんな時、
母親から電話が。



「台風で作業小屋が飛んでいってしもた!とにかくすぐに帰ってきて!」

電車が止まって帰れないため、
困り果てて地元の友人に電話をかけて相談。

ありがたいことに車で迎えに来てくれることに。

ただ、大阪まで来てくれたものの、
幹線道路が通行止めになってしまったため、
通行できる道を探しながら何時間もかけて帰りました。

ようやく家にたどり着き安心したのもつかの間。

目に飛び込んできたのは、
道路や裏山にまで散乱していた作業小屋の残骸。

目を覆いたくなるようなひどい状況でした。



作業場がないと仕事ができない・・・・・・

とにかく新しく作業場を建て直さなければ何もできない。

複雑な思いでしたが、
この作業場の建て直しが私が初めて図面を描き、
木材1本1本に墨付け、
手刻みで加工していった建物となりました。

完成型を常に想像しながら自分で考え、
一つ一つの作業に魂を込めて創り上げていく。



そんな仕事に誇りを持ち、
生きがいを感じた私。


そこから大工という仕事にのめり込んでいきました。



違和感がきっかけとなり挑戦

生きがいを感じた大工の仕事ではありましたが、
全てが元請けだったわけではなく、
大手の下請けの仕事も多くありました。

そんな状況の中でも、
とにかく当時はがむしゃらに働きました。

しかし、いつの頃からか、
ある違和感を感じるようになっていきます。

これでやってくれと手渡される図面。



図面ではうまく収まっているかのようにみえるけど、
こんなやり方では必ず雨漏れするぞ!


図面に設計士の名前があるけど、
一度も現場に確認に来ないじゃないか!


設計の仕事って図面に描いたら終わりなのか?


こんな設計の家に住まわされる人がいていいのか?



色々と沸き上がってくる思い。



自分で設計して自分で施工すればもっと良い家が建てられる!


そう確信した私は、
資格取得のための学校に通うこともなく、
独学で死にもの狂いで猛勉強。

資格取得を思い立った時は、
少し舐めてかかっていたのですが、
いざ勉強を始めると、
聞いた事のない言葉だらけで心が折れそうな日々の連続。

それでも諦めずにがんばった結果、



建築士免許を取得

資格を取得するまでの一年間が、
人生で一番机に向かって勉強したことになるのは、
間違いありません(笑)




新たな挑戦と独立

28歳の時、
大工になってすぐの頃に知り合った妻と、
6年の交際期間を経て結婚。

画像19
今では長女、次女、長男の3人の子どもを授かることができ、
プライベートも充実したものとなりました。

結婚後は一家の主としての自覚が高まったからか、
自分の大工としての技術力を試すために、
1級技能士の検定にもチャレンジ。

冬場の体が凍りそうな夜でも、
毎日仕事を終えてから、
冷たい手をこすりながら練習を重ねました。

その努力も報われ、
1級技能士に無事合格。

検定の実技試験においてはなんと、



三重県内第1位


というおまけで頂くことができました。


話は少し子どもの頃に戻り、
4歳の頃に新築された実家の話を。

新築の家は、
いわゆる和風の日本建築。

大きくて立派な土台、柱、梁、丸太の桁。

壁には竹を縄で編み込んで塗られた土壁。

しかし、当時の流行だったのか、
和室以外の洋室の床、壁、天井には、
シックハウス症候群の原因とされる化学物質を多く含む、
新建材と呼ばれる仕上材を使用。

それが直接の原因かどうかはわかりませんが、
小学生の頃はアレルギー症状でかなりつらい思いをしました。

そんな経験から、
提供する家は、



自然素材を使用した健康住宅

にしようと決めました。


そして2006年10月、
約10年間の父親の下での修業を終えて、



『ナカモリ建築』


として独立。

画像20
独立後に初めて請け負った家づくり。

お客様の夢や希望を直接お聞きし、
それを色々と考えながら自分で設計し、
実際に形にしていく。



これが自分が理想としていた家づくり

完成した家を見つめる、
お客様家族のとても嬉しそうな笑顔。

そして何よりも、



「ありがとう!!」

の一言に、
この仕事のやりがいと使命を、
改めて感じました。




家づくりへの想い

その後たくさんのお客様と出会い、
喜んでいただける家を建てていきましたが、
私たち家族5人は当時アパート暮らし。

私は38歳になり、
長女は9歳、次女は7歳、長男は2歳。

画像21
「よし!自分たちの家を建てよう!」



自宅の新築を決めました。


自分も子どものころの家づくりを憶えているのと同じように、
子どもたちにも家づくりを思い出として残してあげたい。

そんな想いから、
家族みんなでコテを持って内装の壁を塗りました。

画像22
最初はコテで丁寧に塗っていた子どもたちも、
最後には素手で塗りだし、
体も床も材料まみれになっていたことが、
今でも笑い話として良い思い出になっています。

完成した家では、
いつも5人一緒にお風呂に入り、
いつも笑い声が響いていました。


私が思う家づくりとは、



どこに、どんな家を建てるか


ではなく、


誰と、どんな暮らしをするか

ではないかと考えています。

言い換えると、



立地の良い所に高価な家を建てる


ではなく、


大好きな家族と、笑顔あふれる暮らしをするための家を建てる

ということ。

そこには家族の笑顔があり、
笑い声が響いていて、
時には悩みも相談し合える。

そんな人生の舞台になるような家づくりをお客様と共に考え、
提案できるように日々学び、
努力をし続けています。

家のつくり方は時代に合わせて変化もしていくことでしょう。

しかし、家づくりへの想いは、
ずっと変わることはない。

そう考えています。



『家づくりを通じて家族の笑顔と幸せをつくる』

人生に幸福をそっと添えられる。

そんな家づくりが提供できる存在を目指しています。

2020年よりナカモリ建築は、



『キクラスの家』

というブランド名で歩み始めました。

この名前には、



自然素材のの家に暮らす

の良い環境で持ちよく活に満ち溢れ、
楽にままに暮らす

という想いが込められています。 
  
変わり続けるこの世の中に、
ずっと変わることのない想いを胸に、
これからも邁進していきます。

知って得する魔法の「小冊子」限定プレゼント無料

  • 小冊子
  • イベント